Dahlia's book log だりあの本棚

読書で得た喜びをここに記録として残します。 こんな本を読みましたという備忘録として。

#859 記憶の再生と謎解き、そして冷たい闇との対峙 ~「f植物園の巣穴」

『f植物園の巣穴』梨木香歩 著

忘れていたいこと。

 

今年はまず手元にある書籍を読破するまで新しいものは買わないことに決めた。1日1冊読んでも年内で読み終わるか終わらないかという量が積まれているので、とにかく手持ちのものを軽くすることから始めることにする。

 

梨木香歩さんの書籍はすべて紙ベースで保有していたのだが、昨年の断捨離の際にKindle版に乗り換えた。長い間再読せずにいたのでこれを機にまた時系列順に読み始めているところだ。

 

本書も随分昔に読んだきりだったので、内容を勘違いしていた。有川浩さんの「植物図鑑 (幻冬舎文庫)」という小説がある。なぜかこの二作品を混同していて、本書の内容が「植物図鑑」のストーリーだと思い読み始めたら、なんだかどんどんと深みに引きずり込まれるような感じとなり驚いた。

 

今まで再読した作品の中ではこの作品に共通するかも。

 

著者の作品は自然の持つ有無を言わせない圧倒的な神秘に迫るものが多く、それが不思議な空気を醸し出しているところに特徴があると思う。また初期の作品には平成以前の時代が舞台となっていることも多く、明治大正昭和など想像の範疇にある時代背景が余計に本当にあったことのように訴えてくる。

 

本書の主人公は植物館に勤務している。妻に先立たれ、一人で新しい職場に赴任してきた。今担当している水場を活かした植物園のレイアウトに没頭しようとしていたが、耐えられないほどの歯痛により病院に行ってからというもの、時空の境界線や現と幽の帳がゆらゆらと揺れているような、何やらわけのわからない場に置き去りにされたようなことになった。

 

この水場を著者は水生植物園と考えており、秘かに「隠り江」と呼んでいた。誰も手を付けた形跡もなく、主人公はここを自然そのままの水辺のような場所にしたいと考えている。この「隠り江」は主人公の心を取り込み、その本心を読者にもなかなか見せてはくれない。

 

大家の頭は鶏となり、歯医者の家内などは犬になっている。近くの停留所前にあるスターレストランの様子や、主人公が会話を交わす人々の実体性の曖昧さがなんとも言えない。もうストーリー全体が歪みという枠組みのなかでゆらゆらと揺れているとしか言いようがないくらいに話の先が読めない。

 

ここで巣穴が問題となる。巣穴とは言っても本当の巣ではない。木の根元にある大きな穴が巣穴のようで、実際に動物が住んでいたりするのかもしれないが、そんな木のねもとにあるうろに主人公は落ちてしまう。ここから世界が万華鏡のようにくるくると回っていく。

 

読み進めて行くと、睡眠薬に朦朧としている時のような、記憶や潜在意識の奥底にあって自分もその存在すら忘れているような「何か」が見え隠れする様な、まるで陽炎に映った幻を見るような気分になる。その居心地の悪さにむずむずしながら読み進めるのだが、最後にはそのuncomfortableの理由がわかる。まるでぱっと目が覚めたかのように霧が消えっていったが、その霧があったという事実はいつまでも重く読者の心に残る。

 

主人公の名は佐田豊彦という。しかしこの名前は物語の後半まではわからない。そのかわり主人公の頭の中にくっきりと浮かんでくる名前として「千代」という女性の存在がある。幼い頃に家で女中として働いていた「千代」はいつも優しく自分の面倒を見てくれた。妻の「千代」は遠戚の縁のものでまだ若い歳にも関わらず自分へ嫁いできた。この二人はすでに他界している。そしてスターレストランの給仕の「千代」さんがいる。夢の中に登場しては不思議な言葉を残して去っていく。

 

主人公はものすごく繊細な人なのだろう。耐えきれないことが石のように心の中で固まってしまうと、その石の存在を遠ざけ、ついには忘れてしまおうとする。「千代」という女性も痛みにつながるからこそ、どこか実体とは歪のある姿で痛みの後の傷をできるだけ隠すように扱っている。

 

本来の忘れてい記憶がじわじわと沸き上がってくる様子はまるで植物園内の水辺を造成するために細い細い水路が出来るところに似ているのだろう。読み終わって初めて、その混沌の全体像が見える内容なので、本のストーリーを季節に例えるなら冒頭は寒い冬の22時くらい。真夜中となり闇が長く続き、そろそろ東の空が白み始める頃に読み終わる。そして読了後少し経ってから日が差して「ああ、あれはこういうことを言いたかったのか!」と腑に落ちる。主人公の記憶と曖昧さが一気に開けてくることはなく、徐々にゆっくりと読者に流れてくる。そう、私たちが読む主人公の言葉は幻なのだ。

 

難しい本。でも読み終わった後からじわじわと心に触れてくるものがある一冊。