Dahlia's book log だりあの本棚

読書で得た喜びをここに記録として残します。 こんな本を読みましたという備忘録として。

#680 神秘と侍~「居眠り磐音 7」

『居眠り磐音 7』佐伯泰英 著

王子へ。

 

この頃楽しんでいるシリーズもの。50巻を超える作品なのでまだまだ続く予定。楽しみが続くのは嬉しい限り。

 

気が付いたらもう1月も終わり。後半2週間はお客様ラッシュで大忙しだった。実はその間、人数が多い中での通訳をする際、どうしても声が通らず遠くの人に「聞こえない」と言われマスクを外すことがあった。食事の場でももちろんマスクは外すことになる。私の唯一の自慢が今までコロナに罹患していないことだったのだが、朝起きたらあまりの喉の痛さに「ついに来たかも」と病院でPCR検査を受けた。今結果を待っているところなのだが、市販の薬を飲んだせいか傷みはどんどん和らいでいるし、全く熱が出ないので、いつもの風邪で済めばなーと思う。

 

病院から戻り、ゆっくり読書を楽しんだ。というより、続きが気になってどうしても本シリーズに手が伸びてしまう。今回も磐音は藩の借金を返すため、労を尽くす。忘れようと努力しているところなのだろうか、幼馴染で許嫁の奈緒が同じ江戸に居ながらも、千両を超える花魁となった今は再び出会うことすら難しい。よって少しずつ奈緒のことは話題に上らない。その様子があまりにも切ない。

 

磐音がお世話になっている両替屋の今津屋では、お内儀のたっての希望から地元の大山参詣に向かうも、持病が悪化し生まれ育った土地でお内儀はひっそりと息を引き取った。主の吉右衛門もやっと江戸へ戻るが、お内儀がいなくなった今、彼女の不在が今津屋に寂しさを残している。

 

今津屋には小さな社がある。蔵と蔵の間にひっそりと供えられており、長く今津屋に出入りする磐音もその存在を知らずにいた。今津屋の社は稲荷より分社を受けたもので、年に一度、近くに数社ある稲荷から年毎に異なる社を訪れ、商い繁盛を祈願する。今年は王子の年であった。

 

主の吉右衛門は妻を失い喪中であることから、今年は遠慮するという。そこで老分の由蔵とおこん、店のものと磐音が付いていくこととなる。その年、王子では不思議なことが起きていた。狐火が見えるというのだ。狐火が現れる年は豊かな実りがあると言われているそうだが、その数が多いとやはり恐ろしい。それもかなりの頻度で現れるらしく、江戸では大きな話題となっていた。すでに見物客まで現れるほどで、王子に着いた今津屋の面々も早速狐火見学に出かけた。

 

狐火はひとつふたつとどんどんと増え、飛び跳ねるかのように移動する。最後には稲荷社に入っていくのだが、その時、閃光が走った。それを期に見学客は三々五々宿へ戻ろうとするのだが、気が付くと一緒にいたはずのおこんが居なくなっていた。町中探しても見当たらない。もしや立ち寄った茶屋での小競り合いの相手にさらわれたのではと偶然現れた南町奉行所の同心にも援助を頼み、町中を探す。

 

一晩探すもおこんの姿は見つからなかった。この狐火とおこんの話が面白い。このストーリーから江戸の風習について考えた。江戸の人々にとって、神社というのは今以上に日常に根付いたもので、信仰や願い事の場としてだけではなく、もっと公園みたいな気軽な場所のように思える。今は寺社を巡って御朱印を集めたり、パワースポットだなんだと訪れる人も多いが、多くの人にとってはそれほど馴染の無い場所になっているのではないだろうか。しかも町の神社を誇りに思い、祭りに熱くなり、地元神社との連帯感のある生活は、今ではなかなか見られない。せいぜい年始に訪れるくらいかも。

 

江戸の怪談には恐ろしいものがたくさんあり、江戸の人々はそういった奇異を楽しんでいたのではないだろうか。その一つが狐火であり、それを上手く表現している作品が本書だ。時代小説は、私たちが過去に戻ることが出来ないだけに、ファンタジーの要素を持つ。一種の神秘が物語をよりファンタジームードにするのだが、この作品では狐火が幻想的な様子を映し出していて、なぜかそれが江戸への郷愁を誘う。

 

結局、おこんは今回も磐音の手により助け出される。侍の気合。