Dahlia's book log だりあの本棚

読書で得た喜びをここに記録として残します。 こんな本を読みましたという備忘録として。

#572 雌牛が産む生々しさ~「BUTTER」

『BUTTER』柚木麻子 著

全てを象徴するバター。

 

8月も終盤となってから「そうだ、夏休んでない。」ということに気が付いた。思えばGW以降、土日も休めずの生活だった。8月に入って東京に戻り、やっとどうにか週休1日は確保できている感じだ。夏、全然満喫してないし!出勤時の電車も徐々に日常が戻りつつあるようで、ちらほらと学生さんの姿を見かけるようになった。

 

GW以降、山にいる間は夏の風景そのものが美しすぎて、そこにいることそのものが何よりも気分転換になっていた。ある意味、とても贅沢な夏だったと思う。オフィスにいるより労働時間は長かったのに、緑に癒されて完全にストレスフリー。仕事面ではかなり充実していた。

 

ところが東京に帰ってからというもの、ぷつりと集中力が切れてしまったようだ。仕事から離れてのんびりしたい気分でいっぱいになる。居ても立ってもいられず、急遽数日休みを取って鋭気を養うことにした。自由研究的な意味合いも込めて、お茶でもいれてゆっくり読書して、好きなドラマ見て、あと滞っているあれこれを片付けよう。ということで、まずはKindle Unlimiedでダウンロードした本書を読むことにする。

 

びっくりした。気軽に読もうと選んだのだが、食べ物に関連する小説かなー、「ランチのあっこちゃん」系かなー、とさくっと読めちゃうことを期待していたのに、いやいや、とんでもない大作でした。

 

確かにタイトルが表すように、そこは以前に読んだ作品と変わらず「ああ、食べたい!」と思わせる描写が迫って来る。どうしてもバターが食べたくなるなんてことはめったにない。むしろバターの塊が口の中に入って来ること自体、個人的にはあんまり歓迎したくない。隠し味ならわかるけど、バターがメインになるなんて!それなのに本書ではタイトルになるほどの鍵となる食材だ。最初に出てくる食材であるバターは、いつものバターを特別ステキなものへと昇格させるほどのパワーで綴られている。

 

そのおいしさを伝えるのは、東京拘置所に収監されている女性容疑者だ。梶井真奈子は料理が好き、食べることが大好きでブログでもその知識を披露していた。逮捕の理由は殺害容疑で、付き合っていた男性が次々と世を去った。3人目の事件で梶井は逮捕されている。その事件を追っていた記者の里佳は、インタビュー記事を掲載したいという思いから、足繫く拘置所へ通い梶井の話を聞いた。その大半に食が絡んでくる。

 

私も経験があるのだが、生産地により近いところで食べる乳製品は既製品とはまた異なる味わいを秘めている。単に濃厚なだけではない。むしろ草原を感じるようなさわやかさもある。北海道で食べる生クリームや牛乳やチーズに深い風味を感じるのは、きっと産地だからこそなのだろう。牛乳ビンに油膜が張っている所を見て、ものすごく驚いた記憶がある。梶井も牛乳の産地で幼少時代を過ごし、新鮮な乳製品を味わって育った。よってバターへの思い入れも格別である。それが梶井の男性を惹きつける母性の中に乳牛の姿を彷彿させ、いつしかリンクさせるところがまたすごい。

 

梶井の容姿は決して男性を惑わせるような妖艶なものではない。ぽっちゃりとした色白で、パステルカラーの服を好む。梶井を知る男性は決して梶井の容姿を誉めたりしない。むしろけなすのだが、なぜか彼女のもとを離れられない。パトロンを持ち、優雅な生活をしているようには決して見えず、まるで乳牛のようにのっそりと草を食んでいるかと思えば、時に闘牛のような荒々しさを見せる牛、そのものである。

 

梶井には人が心の底に隠していることを見抜く力がある。そして里佳のことも、恋愛が上手くいっていない、家族の問題がある、料理ができない、などほんの少しの会話から人物像を把握したらしい。最初に里佳に食べさせたバターのレシピはバターご飯だ。炊き立ての白米の上に有塩バターをのせ、そこに少しだけ醤油を垂らす。アツアツのうちに、だがまだバターが完全に溶け切る前に食べる。バターは高級なものがいいと、フランスのエシレを指定するところもまたにくい。普段料理もせず、それほど食に関心のない里佳が、拘置所の帰りに小さな炊飯釜を買って帰る。梶井が語る食べ物はすべて絶品に聞こえてくる。そして里佳はなんと1度炊いた分のご飯では足りず、バターの魅力に引き込まれてしまう。なによりもシンプルかつ高尚な旨味を秘めるレシピだろう。

 

巻末まで読み、参考文献を見たことで梶井にはモデルがあったと知った。先ほど検索してみたところ、詳細に誤差はあるとは言え、姿かたちまで梶井そのものに見える。人と人との距離感、心の滓、愛情の欠片が万華鏡のように次々と異なる形で表れ、ストーリーはどんどんと深みを増して来る。

 

殺人事件の悲惨さとは対照的に食へのこだわりが生を表す。それもとんでもない魅力で生きていること、生々しい性愛までをも見せつけてくるので、最後まで緩い緊張感と共に読み終えた。終わりがなんとももどかしいのは、このモデルになっている事件が解決に至っていないからだろう。本人は今も拘置所にいるとのこと。

 

ああ、バターケーキが食べたい。近所のあの店に行ってみよう。そうだ、カルピスバターも買わなくちゃ。