Dahlia's book log だりあの本棚

読書で得た喜びをここに記録として残します。 こんな本を読みましたという備忘録として。

#536 はっきりな物言いが逆にほっこりでした~「藪医 ふらここ堂」

『藪医 ふらここ堂』朝井まかて 著

藪か名医か。

 

今週はとある町でお仕事中なのだが、今回うっかり紅茶を持参し忘れてしまい1週間の脱ミルクティー生活を送っている。あと1日なのでがんばろう!なのだが、思えばコーヒーもコンビニ以外に買えるところがなく、ドリップ式のものをお部屋で淹れるか店頭で購入するかの2択だ。で、問題はもう少したっぷり飲みたい!コンビニもグランデサイズを置いてくれたら嬉しいのになあ。

 

本当はお茶でもゆっくり飲みながら読書を楽しみたい所なのだが、それも儘ならず近くのスーパーで買ってきたお惣菜を夜食として食べながら、ちょっとずつ本を読んでいる。本書もKindle Unlimitedの一冊でタイトルがよくわからなかったので選んでみた。

 

まず、気になったのは「ふらここ」という単語だ。表紙のデザインからは想像できるものはない。調べてみると「ふらここ」とはブランコのことで、なんと春の季語らしい。なるほど、一つまた学びとなった。

 

そのブランコと薮医がどう関係するのだろうか。医者、天野三哲が営む小児科はその名をふらここ堂と言う。名前の由来は庭にある山桃の木にブランコがあるからだ。町の子供が遊ぶのはもちろん、大人でも乗ることのできるしっかりした作りだ。

 

三哲には娘が一人いる。娘の名はおゆん、妻はおゆんを産んですぐに亡くなった。医者は蘭学や漢方など学びを受け、医者として独り立ちする頃にはなんとなく知性のオーラをまとったような姿となるものだと思っていた。身綺麗を心掛け、医院も清潔を保つ。ところがふらここ堂は医者の三哲は髪もざんばら、着物もだらしなく前をはだけている時すらある。見た目が完全に藪医者風だ。

 

ふらここ堂は神田にある小児科専門なのだが、なかなか患者はやってこない。しかも三哲が経営に全くもって熱心ではなく、朝寝坊は当たり前。患者が来ても「めんどくせえ」とおゆんを困らせてばかりだ。

 

しかし、ふらここ堂には近所の楽しい面々が集まってくることで、周囲はいつも賑やかだ。お向かいで早くに母を亡くしたおゆんをかわいがってくれたお安、その息子の次郎助は家業の水菓子屋を放って「医者になりてえ」と三哲の弟子となっている。産婆のお亀はふらここ堂でおやつから晩御飯までを調達している。人見知りが激しいおゆんは、同年代の若者よりも婆たちとのやりとりが楽しい。

 

ある日、身目麗しい父子家庭が神田にやってきた。薬種問屋に勤める佐吉はもと武士で、息子の勇太はまだまだ幼い。佐吉はなぜか三哲の腕を買っていて、三哲の適当そうな言葉からも真意をつかんでいる。まだまだ小さい勇太を男手一つで育てるのは難しく、何かとふらここ堂に集まる面々が佐吉を支える。お安とお亀は完全に佐吉狙いなのだが、その取り合いの様子も面白い。

 

三哲は実はかなりの名医なのかもしれない、という事件が起きた。なんと佐吉の薬種問屋から吉原での接待目的で大量の薬を買い、なかなかはけないことから「丸薬を作る!」と言い出した。その噂が町に広がり、なぜか患者が増えてきた。患者が増えれば「あそこは名医」との噂が広がる。そして恐ろしいことにその噂はお城まで届いてしまう。なのに三哲は相変わらずで、がははと笑い、酒を飲み、朝寝坊で「めんどくせえ」を繰り返している。しかし、やはり三哲の治療にはどこか筋の通った、子供の体を守るだけではなく強く育てるという信念がにじみ出ている。子供の免疫をどう育てるか、そこが三哲の考える医療ともいえるだろう。

 

やっぱり人との関わりの深いお話は、ふれあいの中から江戸らしい人情や笑いが詰まっており、とてもほっこりな気分。中でも同世代の友人が幼馴染の次郎助しかいないおゆんが、人見知りながらも若者組と接しつつ大人になっていく様子にほろりとする。江戸の人々はわいわいと周りと共に暮らしていると思っていたが、考えてみればおゆんのように人見知りだったり、人との会話が苦手だったりという人だっていたわけだ。

 

江戸が舞台の小説はフィクションとはわかっていながらも、なぜか現代が舞台の小説よりもぐっとくることが多いような気がする。選ぶ言葉が異なるからという理由も大きいが、現代が少し遠回りに心を表現する一方、江戸はストレートな直球さながらの口の利き方なのでわかりやすい。好きは好き、嫌いは嫌い、そんなはっきりした様子が心地よいのかな、と本書を読みつつ考えた。「ばばあ!」「ばばあって言うな!」のやり取りに逆にほっこり。テンポ良い会話、楽しいなあ。