Dahlia's book log だりあの本棚

読書で得た喜びをここに記録として残します。 こんな本を読みましたという備忘録として。

#496 これからは民俗学の出番です ~「始まりの木」

『始まりの木』夏川草介 著

民俗学について。

 

昨夜の地震、皆様がご無事でいらっしゃることをお祈りしています。

 

私の住む地域は都内でも比較的揺れが少ないようで、キッチンのものが少しカタカタ揺れる音が聞こえた程度でインフラが止まることも無かった。今朝になりニュースを見てかなり驚いたのだが、震源地に近い東北の方々はつい先日11年と思っていた矢先の地震に辛い夜をお過ごしだったかと思う。 

 

昨日、ちょうど本書を読み終え、日本人の信心について考えていたところだった。私は著者の作品はこれを読むのが初めてなのだが、『神様のカルテ (小学館文庫)』の著者と言えば、ああ!と思う人は多いのかもしれない。本書は確か去年の年末のセール時に購入した一冊だと思う。

 

内容は、私が常日頃思っていたことがそのまま記されており、同じ考えの方はもっと多いはずという思いを強くするに至った。何度か書いたが、私は日本人の心は自然によってもたらされた部分が大きいという論に1票投じたい派だ。私たちの文化がこのような形となったのは、日本独特の環境によるものだと思う。四方を海に囲まれ、陸地には立派な山がそびえ、森林は豊に広がり、そこに川が流れている。神道や仏教という宗教以前に私たちは自然に畏怖や恩恵を感じる心があり、それが基本的な信心となっていると考えていた。節度を持って他を思いやり、決してものを無駄にせず、季節を慈しみ、お互いを支え合って暮らす風習は美しいものだ。それがどんどんと欠ける世の中になってきていることを残念に思うのだが、まさにそのような考えが本書にも詰まっていた。

 

東々大学文学部民俗学研究室には少し変わり者の准教授がいた。杖を突き、左足をかばって歩くその姿は年齢不詳でとても目立つ。その上ちょっと口が悪い。主人公の千佳は今年その民俗学研究室修士課程に進んだ1年生で、変わり者で有名な古屋准教授とともに日本各地を回っている。

 

本書では青森、京都、長野、高知を巡っている。古屋先生は足が不自由であるにも関わらず、必ず自分の足で現地を歩き、自分の目で確かめる。資料から統計データを引き出すことのみで満足することはなく、日本人という民族を感じながら研究を進めている。

 

「神を失った日本人はどこへ行くのか」ーこれが古屋先生の研究の目的だ。千佳は古屋准教授との旅を通じ、教授の研究の影響を受けてきた。そして読者にもその教えが浸透してくる。

 

「かつて、この国にはいたるところに無数の神がいた」

 古屋は、淡く雪のつもった根回りに一歩ずつ足跡を刻んでいく。

「木や岩に、森や山に、当たり前のように日本人は神を見ていた。その神々は、言うまでもなく大陸の一神教的な強力な神とは、大きく性質を異にしている」

 講義室で『遠野物語』を読み上げるときの、あの深く、低く、ゆったりと胸に染み入ってくる声が、老木と雪原の狭間に消えていく。

「日本人にとっての神とは、信じる者だけに救いの手を差し伸べる排他的な神ではない。人間は皆生まれながらに罪人だと宣言する恐ろしい神でもない。ただ土地の人々のそばに寄り添い、見守るだけの存在だ。まさにこの大柊のようにな」

 

この青色の部分、非常に心に染みた。そして昔のことをふと思い出した。

「ふるさと」という歌がある。

 

兎追いしかの山 小鮒釣りしかの川

夢は今もめぐりて 忘れがたきふるさと

 

如何にいます父母 つつがなしや友がき

雨に風につけても 思いいずるふるさと

 

こころざしをはたして いつの日にか帰らん

山は青きふるさと 水は清きふるさと

 

外国に暮らしている頃、よくこの歌を思い出しては泣いた。日本にいる頃はそんなこと全く考えたこともなかったのに、日本の自然がたまらなく恋しかった。外に出れば山もあり、川もあり、森もあったのに、なぜかそこには心を通わせる「存在」を感じることができず、ただただ無機質な自然にしか見えなかった。これはきっと、私たちが自然の中に尊い存在を信じているからだと思う。そして山で兎を追いかけたことも、川で釣りをしたこともないのに、なぜかありありと思い出せる私たちの故郷。こんなに短い歌の中に、私たちの国を思い浮かべるに十分な美しさが込められている。ちなみに、この頃私は「夏目友人帳」に出会い、ホームシックを少しずつ癒すことができた。

 

「日本人にとって、森や海は恵みの宝庫であり、生活の場そのものであった。だからこそ、それらはそのまま神の姿になったのだ。木も岩も、滝も山もことごとくが神になった。ごく当然に見えるこの事実は、しかし世界史的に見れば普遍的なものではない。むしろ西洋の神の歴史から見れば、特殊な世界観と言ってよいだろう」

 

上の古屋准教授の言葉がまさに私が感じていたものだった。教えられたわけでもなく、ぼんやり生きていた私ですら感じられた日本の心がまさにこれだ。続けて古屋准教授は言う。

 

「日本において森や海が世界そのものであったのに対して、西洋においてそれらは世界の境界だった。広大な原生林帯には恐るべき蛮族が跋し、白波の立つ大洋の向こうからはヴァイキングキングの群れがやってくる。安易な解釈に陥ることは避けねばならないが、彼らにとって、森や海は恐怖の対象となることがあり、忌避すべき壁にもなり、取り除くべき敵となることが多かった。だからこそ彼らは森を開き、自然を制圧する営みを積み重ねてきた。そうして、実際に森や海を制した西洋人は、自然の中に神を見るのではなく、自らの心の中に、きわめて人間的な神を作り上げることになった

 

ここで西洋との違いの話が出てくる。

 

「人間の言葉を話し、人間に慈悲深い言葉を与える神の存在は、過酷な環境を生き抜く人々に大きな活力と勇気を与えた。それは確かだ。しかし一方で、神があまりに人間的であることは、西洋社会の世界観そのものを、人間中心の解釈に閉じ込める方向へいざなっていった。のちに生じた科学革命は、一神教の宗教観と対立したように見られたが、けしてそうではない。科学は人間に万能感を与え、その結果、すでに十分に根を下ろしていた人間中心の世界観を刺激して、人間至上主義へと変貌させる結果となった。自信は倨傲に変じ、謙虚は退けられ、思想や哲学の多くが人間を、すなわち自分を語ることに熱中した。人間にばかり語りかける神のもとで、西洋社会はより一層自我を肥大させることになったのだ」

 

この文章はものすごく興味深い一説だった。書籍内にもあったが、今まで自分が考えてきた「神を信じるではなく、感じる」という感覚は学問で言えば何にあたるのだろうと思っていた。神学、文化人類学、哲学かとあたりを付けていたが、この一節で俄然民俗学への興味が深まった。進化が悪いとは言わないが、とはいえ日本人の美しい心を維持するためにも、「神を失った日本はどこへ行くのか」というテーマを古屋准教授と共に探りたいと思う。

 

巻末にものすごくたくさんの民俗学の参考文献が掲載されていた。いつかこれを全て読んでみたい。