#263 木の上での「空仕事」とはなんと粋なんでしょう
『ちゃんちゃら』 朝井まかて 著
江戸の庭師「植辰」に拾われたちゃらの空仕事。
少し前のセールの時に購入した一冊。やっぱり疲れた時には時代小説が身に染みる。これ、どうしてなんだろう?と本屋の時代小説のコーナーに立って考えてみたことがある。まだまだ社会の荒波に揉まれて間もない頃はどんな書籍を読んでも割と気分転換になった。それがどんどんと日々の辛さが重くなってきた頃、ふと子供の頃に読んでいた児童小説をもう一度読みたくなった。会社が舞台の小説や家庭や恋がテーマの小説とは異なり、なんとなく元気がもらえたような気になった。が、やっぱり児童小説は主人公が子供なので感情移入できない部分がある。「児童文学」とは言われているけれど、実際には「文学」なことには変わりなく、なにも子供しか読めない作品というわけではない。ハリー・ポッターシリーズなんかは大人もたくさん出てくるし、読むたびに新鮮な気持ちにさせてくれる。
とはいえ、やはり主人公が子供であると共感できないことがある。そこで時代小説の登場だ。常に言っているけれど、時代小説はファンタジーである。たまに歴史小説イコール歴史書だと思うような困った人がいるけれど、歴史文献を参考にしてはいても実際にあった話ではなくあくまでも「小説」なわけで、作り話である。これを理解できない人は彼の国の人と同様、歴史映画を見て真実だと思ってしまう。そしてその作品を「証拠」とまで言う始末で手に負えない。
さて、そのファンタジー要素を時代小説に求める上で、主人公が社会人であるというのは大変にありがたい。心の機微も慮れるし、江戸の奥ゆかしさや義理人情に日本人としての魂が揺さぶられるという効果もある。良い人になろう!という思いが強くなるから不思議である。
大変に内容からそれてしまったが、本書はそんな江戸を舞台とした小説で、今回の職場は「庭」である。庭師は空に近いところを職場とすることから空仕事という素敵な呼び名を持っている。ガーデニングとは異なり、京都のお寺さんのように立派な庭園を作り上げていく人たちだ。主人公は「ちゃら」という青年で、これは本名ではない。幼い頃に両親と生き別れ、その日暮らしをしていたところを植辰の親父に拾われた。ちゃらは自分の本当の名前も生まれた日も覚えていなかった。そこで親父が付けた名前をそのまま名乗っている。
植辰には娘がいる。お百合というのだが、江戸娘らしい気風の良さで植辰の裏の生活を支えている。お百合の母親は京都の人だった。お百合がまだ幼かった頃に病気であっという間にこの世を去った。当時父親は京都で庭師の修行に励んでおり、そこで知り合ったという。しばらく京都で暮らしていたが、母親の死とともに江戸へ戻る。
植辰の庭師たちはみな腕利きで石、水、花、木、すべてを上手くあしらい見事な庭を作っていくのだが、やはり順調なものの前には必ずや邪魔だてするものが現れる。ちゃら、お百合、植辰の側につく者たちの温かさに支えられながらも決して屈することなく前に進む姿に涙を誘われる。
最後まで読み終わり、もう圧巻。しばらく呆けてしまう程に力強い小説だった。