『むすびつき』畠中恵 著
縁とは。しゃばけシリーズ第17弾。
謹賀新年。今年もたくさんの良書とのご縁がありますように。
年末年始は読書にどっぷりつかりたいと思っていたのだが、思うように読書タイムを設けることができなかった。家のことをやっているうちに2021年がやってきて、三が日は今まで見よう見ようと思っていた映画やドラマを見た。ゆっくり心を落ち着ける時間になったと思う。
2020年を振り返り、また抜けない棘がうずいた。早く古傷となってくれればよいのだが刺さったまま取り除けないでいる。誰にでもあるような失敗なのだろうが、上手く自分の心の中で処理ができていないせいで、時に棘の存在を思い出しては抜きたいのに抜き方がわからないことに悩む。「ああ、失敗したな」とその場で切り替えられれば良かったのだが、その時の対処を間違えたせいで後悔は棘となってしまった。棘が刺さると痛いから悪態もつきたくなるし泣きたくもなる。
良いことも悪いことも人との関わりがあってこそ生まれることだと思う。それこそが「縁」だと思う。日本には八百万の神様がおられあらゆる宗教が受け入れられる豊かな土壌がある。中でも神道と仏教は文化の基盤や日本人の心の基盤になっていてそのことに「なんてラッキーなんだ!」と常々感じていた。世の中には信ずるものが異なることが原因で争いが起きており、我が日本人は信条が原因で反発し合うことに共感できないこともある。もしかすると場合によってはそれが私たちの欠点と言えるのかもしれない。理解できない理由も「縁がなかった」と考えれば、なぜかすとんと腑に落ちる。
「縁」は人と人だけではなく、物や事象にも言える。素晴らしいものが自分のもとに来た時には「ご縁があった」と思う。旅行先で思いがけない場所にたどり着きたまたま入ったカフェに妙な居心地の良さを感じた時や、ふらりと立ち寄った雑貨屋さんで購入したマグが今や一生モノとなった時「ご縁があった」と思う。
そして「縁」は今の生きている時代だけのことではなく時空を超えることもある。それが今回のしゃばけ第17弾の主軸になっていた。輪廻を信じるものにはすんなり納得できる。そして前世を信じられないことにはこの物語も理解できないだろう。
若だんなは今回も順調に体が弱く長崎屋に住む妖たちにすら心配されるほどの日々を送っている。妖は人の一生より長く長くこの世にいるから人間の命を一瞬のことのように思えるらしい。だから今は大好きな若だんなの元に居られるのも一瞬のことと理解してはいるけれど、いつも心のどこかでいつかは別れがくると思っている。
ただ、私たちには「輪廻」があるのだ。今の生での別れが来ても、きっとまた会える。実際若だんなの祖母は齢3千年を超える皮衣という大妖で若だんなの祖父と会えるまで何百年も待っていた。鈴の音が聞こえてくるのをじっと待った。生まれ変われば必ず会えると信じていた。
若だんなの周りの妖たちの「また会える」と信じたい、いつまでも一緒に居たいという深い思いが全編に漲っていた。きっと前世でも会っていたはず。生まれ変わりは必ずあるはず。いつまでもずっとずっと。
今、周りにいる人々はきっと前世で縁があった人なのだ。何等かの見えない意図と意思と力のもとに今世でも「縁」がつながっているのだ。そう思ったら棘が小さく感じられるかもしれない。
今年も新しい出会いがあるだろう。新しい別れもあるだろう。トラブルもあるだろうし、喜びもあるだろう。それがすべて「縁」だと思えば明るい未来があるような気になった。