Dahlia's book log だりあの本棚

読書で得た喜びをここに記録として残します。 こんな本を読みましたという備忘録として。

#066 語学の天才は貞淑でユーモラスな美人だった

 『不実な美女か貞淑な醜女(ブス)か』 米原万里 著

ロシア語通訳者の語る言語に対する向き合い方。

不実な美女か貞淑な醜女(ブス)か (新潮文庫)

不実な美女か貞淑な醜女(ブス)か (新潮文庫)

 

 

語学に関心のある方なら誰もが目を通すであろう米原万里さん。もともとは文庫で持っていたのだが、この度いくつかKindle版で再購入した。電子書籍がどんどん便利になっていく。書籍を保管するスペースの問題も解決するし、何より移動時にたくさんの本を持ち歩く必要がないのも良い。

 

さて、通訳と聞いて思い浮かぶ人が3人いる。すべて英語の同時通訳の方でそのうちお二人はBBCだったかCNNだったか、明瞭な日本語と聞きやすい声が強く印象に残っている。毎回同時通訳者のお名前をチェックしているのにも関わらず、なぜかお名前を失念してしまう。このお二人が通訳の時は安心してニュースを聞いていられるほどに突出した実力をお持ちなのだが、以前にチェックした時には書籍を出したり講師をされたりという活動はなさっておられなかった。プロ中のプロの通訳士である。そしてもうおひとりはコンマリさんの通訳の方。彼女の声もとても聞きやすい。そして前者2名が英語⇒日本語なのに対し、コンマリさんの通訳は日本語⇒英語。「ああ、こういう表現にすればよいのか!」と大いに学ばせて頂いた。

 

海外からの来賓のスピーチや世界的な大発表の際など、通訳というお仕事のおかげで私たちは即座に内容を理解することができるわけだが、やはり力量ともって生まれた素材(声)の限界というものがある。聞きやすいと思う方は、まず日本語に無駄がない。だからわかりやすい。

 

適した言葉を選ぶというのは本当に難しいことだと思う。その場に合った表現方法で、相手に不快感を与えないように気を配っているつもりでも、いつもいつも後悔することしばしば。そもそものボキャブラリーが少ないのが問題だろうかと、表現を学んだりもするけれど気を抜いた途端にがさつな自分が出てしまう。借り物の言葉ではなく、自分でしっかりと咀嚼して身に着けた言葉で話したいと思うが、むしろ一言も発さずに過ごしたほうが良いのでは?と思うほどに発言による失敗は多い。

 

米原さんはチェコで子供時代を過ごされ、チェコ語ではなくロシア語で教える旧ソ連の学校に入学されたそうだ。帰国後も使えるようにとロシア語を選択されたのは米原さんのお父様で、その頃は娘が日本を代表するロシア語通訳になるとは想像すらしておられなかった事だろう。幼い頃に海外で生活されたとは言え、米原さんの日本語に欠けた部分は全くない。通訳という仕事柄のせいか、非常に博識で常に語学に対するアンテナを張ることで得た言葉のニュアンスだけではなく、もとよりセンスのある方なのだと思う。もしくは通訳になる方というのは皆さんユーモラスで、人を惹きつけて止まない文章力をお持ちなのだろうか。

 

米原さんの通訳に対する真摯さは、おそらくお二人の師匠と他言語通訳のご友人のエピソードからも伝わってくる。文中何度も出てくるが、翻訳者は作品に向き合い、割と時間の猶予を与えられ、アウトプットされた作品を読み返してチェックすることができる。一方同じ言語を扱う職である通訳は、翻訳者が持っている時間軸を利用することができない。一度発話してしまえば修正することもできないし、原発話者の発話後すぐに通訳が入らなければ、それは事故と思われてしまってもおかしくない。翻訳者が一つの単語の訳をひねり出すのに10時間かかったとしても全く問題がないわけだが、通訳者が同様の行為に10秒かけただけでも大事件になってしまう。米原さんはそのあたりを強く強く意識して、日頃「通訳たるもの」という教訓のようなものを胸に秘めていたのではないだろうか。じゃなければ、こんな多彩な日本語は操れないだろうから。

 

米原さんが他界なさったというニュースを聞いた時は本当にショックだった。ちょうど海外に在住していた頃で、次の新作を待ち焦がれていた頃だったからだ。今こうしてこの本を読み返すと、90年代の通訳事情なので使う機材やシステムが古いことにすら懐かしいと思えてしまう。懐かしいと思えるくらいに米原さんの本に心酔していた。語学を学ぶという覚悟というか、使命というか、私には足りないものばかりだったから読むたびに学ぶ意欲を回復させていたように思う。

 

この本には通訳の仕事内容のみならず、どういう心持ちで通訳という仕事をとらえるべきなのかという米原さんの思いが強くしたためられており、通訳という仕事の大変さよりも面白さに光が当たっている。英語通訳の田中祥子さんが名訳のエピソードや、親友シモネッタことイタリア語の田丸公美子さんの大胆エピソードなどどれも関心してしまうのだが、とにかく鋭い。言葉に対しての機転の利き方に憧れてしまう。

 

今、また外国語を使って仕事をしなくてはならない環境となり、甘えで学習を先延ばししているのだが、やっぱり覚悟が足りてないと再確認した。米原さんはかっこいい。目指すべき道は見えるのに、今、ここに米原さんがおられないことが残念でならない。昔持っていた文庫本にはないのだが、巻末に文中で引用されているツルゲーネフの「アーシャ」の訳について読者より誤りを指摘する手紙が2006年4月19日に米原さんのもとに届いた。米原さんは同年5月10日にこう返信している。

 

 お 手紙 ありがとう ござい ます。 心から 感謝 し、 感激 の 気持ち で いっぱい です。  

 貴重 な お 時間 と お金 を かけ て 拙著 を 読ん で 下さる だけで なく、 その 内容 にまで 踏み込ん で 詳細 に お 調べ 頂き、 また わざわざ 丁寧 な お 手紙 に コピー 文 まで 添え て お送り 下さっ て、 その 知的 探求 心 に ただただ 頭 が 下がる ばかり です。 また 心底 恥ずかしく なり まし た。  

 少女 時代 に ロシア 語 に 親しん で い た 私 は ロシア 文 の 原文 には 何度 も 接し て い た という おごり が あっ た せい で『 不実 な ~』 を 書く 際 には 訳文 しか 確認 し て おり ませ ん でし た。 たしかに あの 場面 で Ася が "Я люблю вас" という よう な 陳腐 な せりふ を 吐く のは 唐突 で、 消え入る よう な 声 で "Ваша..."(= あなた の もの よ) と つぶやい た 方 が 遙 かに 自然 です。 そして おっしゃる よう に それ を「 死ん でも いい わ」 と 訳し た 四迷 の 文学的 センス は 驚く べき もの です。  

 早急 に 拙著 の その 部分 は 書き直し ます。 その 際 には 福田 さん の お 名前 と お 手紙 の 一部 を 引用 し ても よろしい でしょ う か。  

 また、 編集 者 と 相談 し て なるべく この 重要 な 訂正 部分 を 世 に 知ら しめる 努力 を し たい と 思い ます。  

 いずれ に せよ 福田 様 には 心から お礼 申し上げ ます。 ありがとう ござい まし た。  

 

感謝 と お詫び の 気持ち を 込め て    

二 〇 〇 六 年 五月 十日 米原 万里  

 

そして、この返信のすぐ後ろに編集部がこう書き残している。

 

著者 は、 二 〇 〇 六 年 五月 二十 五日、 亡くなり まし た。 その 部分 を どう 直す か、 最後 まで 気 にさ れ て い た そう です。 福田 氏 への 返信 が、 著者 の 絶筆 です。

二 〇 〇 六 年 六月 十三日       新潮 文庫 編集 部

 

kindle版を新規購入し、この巻末の文章に出会い「ああ、本当にもうおられないんだな」と改めて涙した。