Dahlia's book log だりあの本棚

読書で得た喜びをここに記録として残します。 こんな本を読みましたという備忘録として。

#187 言葉に込める

 『髪結い伊三次捕物余話 8』宇江佐真理 著

番方若同心となり、若旦那と呼ばれるようになった龍之助。

 

天気もぱっとせず、気持ちがあまり盛り上がらない。こんな時は読書に限る。以前にも書いたかもしれないが、今までは読書に対して少しガツガツしたものがあった。本から必ず何か得てやろう⇒ 必ず知識を得てこそ読書⇒ もし何も本から得られないなら自分のレベルが低すぎるということだ⇒ それならば最初から確実に知恵を得られるような本を選べばよい、といった流れで「読書」という単に本を読むというだけのことが変な風に脳内変換され、その結果本当に読みたいわけでもない書籍ばかり購入するようになった。確かに得られるものは大きかったし、新しいことを知るきっかけにもなった。

 

それは読書の愉しみより教科書を読んでいるような感情の伴わない読書だった。食事をとらずに栄養剤で補うみたいな。もともと児童文学が好きな上にヨーロッパ文学には目がない。妖精だの魔法だのがテーマの児童文学を大人が読んでなんになるという人もいるだろう。もっと仕事に使える本を、もっと糧となる本を読め、と。でも、もうそんな葛藤はやめることにした。今年は好きなものを好奇心の赴くままに読もうと思う。読了後に毎度そよ風が吹いたような気分になることを目指したい。

 

ということで、また伊三次の続きである。現在10巻目までは購入済なので持っている巻までは読み切る予定である。この巻で8冊目。あと少しだ。

 

 

今回のキーワードは「言挙げ」という言葉。同心は見回りの際に町人から袖の下をもらうこともある。町人は自衛のために同心に少しのお金を渡すことで万一の時に同心から守ってもらいたいという思いを金銭に隠す。ただ、それは正しいことではない。

 

同心の中にも袖の下を受け取らないことで清貧生活とはなるが、自身の良心を貴ぶことに重きを置くものもいた。そして、奉行所にいながら悪を為す者に対し、例えそれが上官であっても罪を追及してしまったがばかりに閑職へ追いやられる。

 

同期の喜六に嫁ぐ娘の父親はまさにそういった類の人物で、正義を貫くために「言挙げ」した。そしてあらぬ讒言と否定され懲罰として書庫の奥へと追いやられる。龍之助はすぐにその言葉を思い出せず、昔の恩師に尋ねる。

 

「今さら、 言挙げ とは 何 ん だ と 訊く のは、 お ぬ し ぐらい の もの だ。 恥ずかしい とは 思わ ぬ か」

「はい…… お 恥ずかしい 限り です」  

 龍 之 進 は 首 を 縮め て 応え た。

「『 古事記』 の 中 巻 に 倭建命 が 伊 服 岐 能 山 へ 山の神 の 退治 に 出かける 話 が ある。 その 時、 倭建命 は 白い 猪 と 出くわす の だ。 倭建命 は、 その 猪 を 神 の 使者 と 思い、 帰り道 で おまえ を 殺し て やる、 と 猪 に 言う。 それ が わが国 最古 の 言挙げ の 用例 とさ れ て おる」    松 之 丞 は、 おもむろに 言挙げ の 謂れ を 語っ た。

「そう し ます と、 自分 の 意志 を はっきり と 言う こと が 言挙げ に なる の です ね」

「その 通り だ。 しかし、 神代 の 頃、 言挙げ は 言葉 の 持つ 呪力 を 働かせる 行為 で あり、 一種 の 呪い と 解釈 さ れ て おっ た。 それ で 間違っ た 言挙げ を すれ ば、 その 呪い が 自分 に 跳ね返っ て くる と 信じ られ て い た。 倭建命 が 出くわし た 白い 猪 は 神 の 使者 では なく、 神 そのもの の 化身 だっ た の だ。 間違っ た 言挙げ を し た 倭建命 は 山の神 の 怒り を 買い、 激しい 氷雨 を 降らさ れ た。 その ため に 疲れ 苦しみ、 とうとう 命 を 落とす 羽目 と なっ た の だ」

 

言挙げとは、言葉に出してはっきりと表現することを言うのだそうだ。こちらのサイトに詳しい説明があった。

 

 

言葉が自分に跳ね返るというのは言霊と同じことであると思う。口にしてしまったことが実現してしまうわけだから、マイナス要素のことを口にすれば途端に自分の身の上に反映する。よって自己啓発本などでもポジティブシンキング等の啓蒙があるわけで、常に良いことを口にすることで己の身にもよいことのみが跳ね返ってくるわけだ。

 

楽しくない本を読んでいると気持ちが盛り上がらないのでついついマイナス思考にひっぱられてしまう。この言挙げのストーリーを読み、言葉を選んで話すということや、そもそも思考回路をマイナスループに陥れないように保つことには日本の文化に長くあったものなのかもしれないと思った。日々私たちの祖先が築いてくれた「伝統」を重んじることが私たちの財産であると考えているのだが、日本独自の文化がひっそりと極東の地で花咲いていたのは「言葉」に思想を重ねることを早くから知っていたからではないかと思う。