Dahlia's book log だりあの本棚

読書で得た喜びをここに記録として残します。 こんな本を読みましたという備忘録として。

#742 決して実在しないけど ~「彼岸花が咲く島」

彼岸花が咲く島』李琴峰 著

知らない島へ。

 

シリーズものをいくつか一気に購入したせいか、Kindle内の未読の本がものすごくたまっている。シリーズものを読んでいる場合、次号を案内してくれるサービスがKindleにはあるのだが、たまに機能しないことがある。その際は自分で探して開く必要がある。たまにどんな本があるのかチェックするのだが、ずっとずっと下の方には「いつ買ったんだろう?」と自分でも思い出せない作品がある。本書は随分前のセールの時に購入した一冊で、タイトルを見てやっと思い出した。

 

彼岸花と言えば、江戸の小説であればあの世に咲く、またはあの世へと連れていく花というイメージが強い。そんな彼岸花が咲く島とはどんなところだろう。読み始めた瞬間から不思議な感覚に襲われる。白い服をきた娘が彼岸花の咲く海辺に倒れていた。手足に傷を負い、海で流され島に打ち上げられたようだ。娘を見つけた島の子であるヨナは、この娘がニライカナイからやってきたと考えた。なぜなら白い服を着ていたからだ。島にはノロという巫女のような人たちがいる。ノロが白い服を身に着けることから、ヨナは娘に何か神聖なものを感じたようだ。

 

娘は気が付くも、まずヨナとは言葉が微妙に通じなかった。加えて記憶をすっかり失っていた。自分の名前もわからない。ひとまず娘をヨナの家へ連れ帰り看病することにした。そして娘が自分の名前を思い出せないことから、ヨナは娘にウミと名付けた。

 

このあたりまで読むと、うっすらと沖縄の南の島を思わせる描写が多い。特にニライカナイはキーワードともいえるだろう。沖縄の小説を読むと、神の国として記載されていることが多い。島で話される言葉は日本語の方言と中国語を混ぜたような不思議さがある。固いような、柔らかいような。おそらく台湾に近い島、与那国島当たりが最も舞台にふさわしいような気がして、行ったことのない南の島を思い浮かべながら読み進める。

 

まず時代設定も過去のような、現代のような、未来のような不思議さがあり、実在しないとわかっていながらも、その島の時間や時代についてあれこれ思いを巡らせる。まず、ノロの存在は宗教のようであり風習文化のようでもあるのだが、ノロ存在の注目すると近代以前のように感じられる。しかし島での生活は車もあって近代に入ってからのストーリーのようにも見える。だが、その生活は決して便利になっている様子はなく、やっぱり昭和初期を連想したりと時空間を行ったり来たりする感覚に襲われる。

 

だた、著者が台湾の方であるということを知った今では、ぐっとイメージしやすくなった。島には「女語」というものがあり、これは女子にだけ学ぶ権利がある。ウミとは女語を使うことで意思疎通が楽になるのだが、ウミの使う言葉は日本語に近い。しかし「家族」という単語は知らないが、「ファミリー」なら理解できる。一方で女語にはカタカナで記す英語がもととなる単語はない。

 

しかし、ウミの言葉はニホン語であって日本語ではない。いわゆる架空の国の言葉なのだが、実在するものをカタカナやひらがなで表記することで、フィクションとしながら風刺の要素を兼ね備えている。

 

女語はノロになるには必須条件である。ノロの中でも最高位の大ノロは、ウミの存在を知りノロになるようにと言った。帰るあてのないウミにはこの島に残る以外の道はない。そこでノロになるべくヨナとともに学校に通い、準備を重ねた。ノロになれば島の歴史を知ることができる。

 

ヨナにはタツという島の少年の友達がいた。本来男は女語を知る由もない。ところが島の歴史に関心のあるタツは、友から学ぶなどして女語を独学で身に付けた。そして島に生まれたからには島の歴史を知りたいという。ノロについて、歴史について何もしらないヨナとウミはいつかノロになれたらタツに伝えると約束する。

 

単なる沖縄を舞台にしたフィクションとは言えないメッセージ性の強い小説であった。多くの社会的政治的な立場を連想させる事柄が多く、それゆえに深い。いくつもいくつも裏の裏の裏がありそうな、読むたびに違う印象を受けるであろう作品だ。主人公がまだまだ少女であるが故に見え方がいくつも準備されている。加えて、彼岸花の持つイメージが物語を重くさせる。しかし気が付かなければ「沖縄を舞台にしたファンタジー」で終わってしまう可能性もあるだろう。

 

偶然だが、この本を読んでいる時、GWの最後の日から宮古に行ってきたと写真を見せて下さった方がいて、それはきれいなブーゲンビリアだった。ピンクや白の花こそ、沖縄には似合う気がする。