Dahlia's book log だりあの本棚

読書で得た喜びをここに記録として残します。 こんな本を読みましたという備忘録として。

#620 疑うことで深く~『知と疑い』

『知と疑い』寺田寅彦 著

大正時代の英雄の言葉。

 

文化の日だった昨日、音楽を聴きながら読書を楽しんだ。

 

学生時代のこと、英文学の講義でイギリスの文学史に挙げられるような作品をいくつか読んだのだが、当時は「きれいだなー」くらいのぼんやりした感想しかなかった。それが年を重ね、というより社会人になって酸いも甘いも経験した頃から改めて詩、短歌、俳句や漢文に美しさ以上のものを感じられるようになった。たったの数文字から連想されることがものすごくたくさんあったりすると「まるで宇宙」と知ったかぶりしてみたり。気が付くとたった一文字に惹かれて、一丁前に自分に重ねてみたりもする。表現する能力のある方ならば、もっと深みに到達して詩をもっと味わい尽くせるのだろうが、私には今この程度が精一杯だ。

 

好んで聴く音楽もメロディーの良さも重要だが、この頃は歌詞が刺さる。昨日もこの曲を聞いていたら、ふと気持ちが哲学的モードに入ってしまった。今は時間が空いたりするとすぐに携帯を触ってしまうのでなかなか「考える時間」というものが無くなった。昨日はこの曲を聞いてからぼんやりと考え事をしてみる。

 



そして、ふと寺田寅彦の作品を読もうと思った。物理学者でありながら、著者の随筆は文学的で読む度に戦前の知識人の知恵に驚いてしまう。今回はなんとも固いタイトルの本書を読むことにした。

 

「疑う」ということは、実はものすごく大切なことだ。信用しない、ということだから何となく肯定的に受け入れられない面が浮き立つし、特に対象が人間であればなんとなく後ろめたさが残る。しかし対象が仕事や学問や心理や気など、手で触れ目で見ることのできないものならばどうだろう。「どうして?」と疑問を持つことで答えを見つけようと自分の頭で考える。その作業は深くものを掘り出すことを意味しているし、自己啓発の本あたりにもよく書かれているので、やはり追求究明する作業には欠かせないことなのだろう。

 

疑いは知の基である。よく疑う者はよく知る人である。南洋孤島の酋長しゅうちょう東都をうて鉄道馬車の馬を見、驚いてあれは人食う動物かと問う、聞いて笑わざる人なし。笑う人は馬の名を知り馬の用を知り馬の性情形態を知れどもついに馬を知る事はできぬのである。馬を知らんと思う者は第一に馬を見て大いに驚き、次に大いに怪しみ、次いで大いに疑わねばならぬ。

 

最近読んでいるポアロもそうだが、疑うことで初めて解決へつながる道が見えてくる。それはわかっているのだが、私はなんともすんなりと物事を受け止めてしまう質である。だから進歩が無いということも大いに自覚している。すごい人に会えば、ただただ「すごいなあ」で終わってしまい、どうしてその人がすごいのかを疑うことがない。だから学びが浅いのだ。

 

読書もとよりはなはだ必要である、ただ一を読んで十を疑い百を考うる事が必要である。人間の知識を一歩進めんとする者は現在の知識の境界線まで進むを要する事はもちろんである。すでに境界線に立って線外の自然をつかまんとするものは、いたずらに目をふさいで迷想するだけではだめである。目を開いて自然その物を凝視しなければならぬ。これを手に取って右転左転して見なければならぬ。そうして大いに疑わねばならぬ。この際にただ注意すべき事は色めがねをかけて見ない事である。自分が色めがねをかけているかいないかを確かめるためには、さらに翻って既知の自然を省みまた大いに疑わなければならぬ事はもちろんである。

 

読書が好きなのは、別の世界にワープしたような感覚になれたり、主人公の活躍を疑似体験して一瞬自分を忘れられたり、知らないことを知る喜びがあるからなのだが、上の文章を読んで「私は本を味わえ切れていない」と思うに至った。ストーリーを楽しむだけではなく、本にしっかり対峙して考える作業をもっと持たねば。そうすればこそ記憶に心に残るのだ。こうして本の記録を取るようになったのも読んだことを忘れるからだが、味わい尽くしていればきっとタイトルを聞いただけで「ああ、あの本ね!」とさっと記憶の引き出しから内容を取り出せることだろう。

 

短い随筆なので2度も3度も読みながら、今の自分の読書に何が足りないかを考えた。Kindleでも無料で読めるが青空文庫でもアクセス可能なので、是非一読をおススメします。