Dahlia's book log だりあの本棚

読書で得た喜びをここに記録として残します。 こんな本を読みましたという備忘録として。

#479 驚愕の重低感でした~「弥勒の月」

弥勒の月』あさのあつこ 著

若い同心木暮信次郎と先代から木暮家に仕える伊佐治。

 

またAmazonにてキャンペーンが繰り広げられており、ついうっかり密林探索に出たい気持ちが逸るのだが、ここは我慢で乗り越えたい。ただ、長いのです、キャンペーンが!3/3までなので手持ちの本がKindle+紙版合わせて30冊に減るまでは絶対に本を買わないと決めた今、ここは我慢我慢。まず無理だが万が一達成出来た時を考え、リンクを貼っておきたい。

 


さて、本書は年末のキャンペーン時に購入したもので、シリーズ9冊まで出ている。こう言うとフェミニズム風に聞こえてしまうかもしれないが、今まで私が読んできた時代小説の表紙は主人公が男性の場合でも、表紙の挿絵で作家の性別がなんとなく推測できるものが多かった。だが本シリーズは表紙がものすごくシックで、すっと背筋の伸びるのような冷たさと美しさがある。完全に「無」だ。表紙だけでもアート的な価値を感じるくらいに美しい。字体も素敵でお名前の平仮名がタイトルと相まってちょっとした蒔絵の挿絵のようだ。

 

表紙はすでに多くを語っており、ストーリーの独特な世界を映している。主人公の木暮信次郎は親の後を継いで同心になるも、亡くなった父親とは違い人情派ではない。父についていた岡っ引きをそのまま受け入れたのは、父が「伊佐治ほどの岡っ引きはいない」と生前語っていたせいなのか、それともただ面倒だったからか、そのまま引き継ぎ十手を渡している。その伊佐治はまだ信次郎を心から信奉しているわけではなく、このまま仕事を続けることに疑問を抱いている。

 

伊佐治は岡っ引きの中でも誠実で知られており、袖の下などを要求せず、真摯に仕事にあたるタイプの男だ。というのも、妻と息子夫婦が小料理屋を営んでおり、その収入で一家は楽に暮らしていける。必要以上の贅沢をするわけでもなく、地道に生きることを伊佐治は選んだ。幼少の頃に二親を亡くし、生きるに苦労した。真っ当な道からははずれ、その日暮らしをするような生き方に身を窶していたが、今の妻と所帯を持ち、心を入れ替えた。

 

信次郎と伊佐治。恐らくものすごく情が深いのではないだろうか。ただその方向性が1巻目ではまだ足並みを揃える段階には至っておらず、秘められた能力がまだ開花していないような風情がある。そんなちぐはぐな二人の様子が文体からもひしひしと伝わってくるのだが、読んでいる間は気が付かなくても、読了後「ああ、なるほど!」と重々しい文体の理由が見えたような気がした。なかなかすーっと流れに乗り切れないような読書も、気が付けばしっかり読むテンポをコントロールされており、ものすごい小説に出会ってしまった!と感動。

 

著者についてはあまりにも『バッテリー (角川文庫)』が有名すぎたこと、この小説が(読んでいないのでわからないが)野球がテーマであったことなどから、今まであまり読みたいと思う機会が訪れなかった。ところが時代小説も書いておられると知り、さっそくこちらを読んでみた。

 

弥勒の月』を読んだ後であることや、作品の世界観が圧倒的だったことから『待ってる』の内容が全く頭に浮かんで来ない。以前のポストを読み、そうだ。人物の心の機微の表現が素晴らしい作品だったと思い出す。

 

弥勒の月』シリーズは完全に児童文学作家という著者のイメージを覆した。きっと本作が出た当時、ファンの方は「どうして時代小説!?」と混乱したことだろう。本書には全く甘さがないし、むしろどこか罪悪感からくる冷淡さが表に立ち、江戸のお約束である人情は、ものすごくひっそりと後ろに控えているようなところがある。

 

Kindleは本当に便利な友で、1巻目を読み終えて本を閉じる時、2巻目もありますよ!と次を読むよう勧めてくれる。いつもならすんなり次の作品を読むところなのだが、今回は余韻を熟成させてから2巻目に行きたくなるような気分になった。ライブに行き、それがものすごーーーく好きなタイプの演奏だった時みたいな感じ。音の重低感の余韻がなかなか体から抜けず、いつまでもそのリズムが心に刻まれている。そんな読了感を得られる貴重な小説。