Dahlia's book log だりあの本棚

読書で得た喜びをここに記録として残します。 こんな本を読みましたという備忘録として。

#040 不安定な「価値観」しかなかったから仕事に縛られていたのかも

テルマエ・ロマエ」のヤマザキマリによる「仕事」に見出す価値とは。

 

仕事にしばられない生き方 (小学館新書)

仕事にしばられない生き方 (小学館新書)

 

リモートワークも来週いっぱいで終わりとなる予定だが、この2ヶ月余のリモートワークが快適すぎて今後について考えてしまった。そもそも今の仕事自体に責任を感じることはあっても全く愛着がないのだ。愛社精神なんてものは欠片もないし、社内の人間関係をプライベートに持ち込むだなんて想像するだけでもゲンナリする。本当にこのままで良いのだろうか。

 

それで、読んだ。著者のエッセイはいくつか読んでいた。「テルマエ・ロマエ」が大ヒットとなる前、イタリアの食について書いたマンガを読んで以来ずっと作品を追っていた。まだ著者がイタリアやポルトガルに住んでいた頃のブログも読んでいた。お風呂マンガの大ヒットでエッセイが出るようになり、昔からのファンは待ってました!と歓喜したことと思う。

 

流行。これはとてもやっかいものだ。特に日本は右倣えで流行に乗れない者は社会からはみ出た者のように扱われることさえある。みんなが大好きな流行のあれこれに流されず、流行の存在とは別のところで生きているような人はそれほど多くはないと思う。著者はバブル時期を日本ではなくイタリアで、しかもお金とは全く無縁の生活を送っていた。一心不乱に絵を書き、文学を楽しみ、恋をし、日々の食べていくのに精一杯だった。青春時代、流されることなく生きてきた。その次代に培った価値観を綴ったこの本にずいぶんとヒントをもらった。

 

「本当にそれが欲しいのか」という章がある。著者の子供時代のエピソードから「物を買う」ということについての価値観が語られている。

 

何かを欲しいと思う時、そう思ってるのは自分自身だと疑いもしないけれど、本当にそうでしょうか。本当は、そう思わされているだけじゃないか。

 

著者が子供の頃、女で一人で二人の娘を育てた母親は「暮しの手帖」を愛読し、流行ではなく審美眼でもって買うべきもののみを手にしていたらしい。買わせるために物にはいろいろな仕掛けが施されている。最たるものが広告で、雑誌の半分は広告だなんてことも稀ではない。それどころか付録が欲しくて本を買うような構造がすでに成り立っている。人間の欲望はあっけなく、一度「欲しい」と思ったら手にするまで執着してしまう。著者の母親がすごいのは、お祭りで綿あめを欲しがる子供に袋代が高いのであり原価は10円そこそこだと物の価値をしっかり教えたことにある。だからこそ著者はブランドの街フィレンツェでショッピングに溺れることもなく、絵の道を極められたのだと思う。

 

目の前にあるものに飛びついて、うかうかと流されるな。欲しいと思うその気持ちは、本当に自分のものなのか、まず疑ってみること。周りに同調しているだけじゃないか。流行りに乗っかっているだけじゃないか。世間体を考えて、見栄を張っているだけじゃないのか。それでも本当に必要だと思うなら、自分でよく考えて、選びとった結果に責任を持つこと。

 

なぜ働くのか。生活するために。欲しいものを買うために。お金が必要だから。仕事を辞めれば今の生活を維持できなくなる。転職して今の収入を維持できなくなれば生活が苦しくなる。だからなかなか飛び出せない。しかし今の生活に無駄はないだろうかと考えた。自己投資と称して購入したあれこれは本当に必要だったのだろうか。食べ物だってそうだ。これだけ食品ロスが世界の問題となっているにもかかわらず、週末にスーパーであれこれ買ったはいいが、結局賞味期限が切れてしまったりということも。生活の質を考え「本当に好きで大切に長く使えるものを」と好みが変わってきたところだったので、上の部分には大いに共感できた。

 

著者はよく「俯瞰」という言葉を使う。14歳の時に一人ヨーロッパを旅した時、頼れるは自分のみということを知った著者は、追い詰められてどうしようもなくなった時「自分を支えるもうひとりの自分」の存在を発見したという。

 

14歳のあの時の私が、心の中のもうひとりの自分を意識することで、目の前の困難を乗り越えていくことができたのは、自分自身を俯瞰することができるようになったからだと思います。

 

14歳で人生を俯瞰するとは恐れ入る。もうひとりの自分とは自分自身の核であり、その本質がある限り自分は自分であるという自信持ち続けられるのだろうか。そうすれば周りに流されない人となれるのだろうか。しかしもうひとりの自分に出会うまでが容易ではない。考えに考え、自分に向き合うからこそ己に出会えるわけだから。

 

だいたい、はなっから「自分はこういう人間です」なんてわかるわけがないんです。わかっているつもりでいるなら、それは、たぶん「これまでの自分」に過ぎない。自分なんてものは、そうやっていろんな経験をするたびに、どんどん上書きされて、更新されていくものじゃないでしょうか。だとしたら「私って、こうだから」と、やる前から自分の枠や限界を決めてしまう必要もない。その時、その時に、自分がやれることをやってみればいい。

 

楽な方に流されてきたせいで上書きするような十分な経験もなくここまで来てしまった。真剣に向き合って来た著者の言葉がいちいち重い。でもいくつになっても自分の立ち位置にさえ気づくことができれば軌道修正可能であると信じたい。遅くはないと信じたい。やりたいこと、やれることをまずやるべきだ。そうでもしなければ、いつまで立っても己に出会えないぞと喝を得た気になった。しかし仕事はどうする。

 

やりたいことでは食べていけないからと別の仕事をするうちに、その仕事にとられる時間の方が長くなっていく。そうなった時に、自分の気持ちとどう折り合いをつけるのか。やりたいことで身を立てたいと思ってはいても、それがどうしてもうまくいかなかった時に、この先も続けていくべきか。それとも、どこかで踏ん切りをつけるべきなのか。 

 

わかる。仕事とやりたいことは別であることは大いにある。好きなことより得意なことのほうが稼ぎになる。さて、今後どうしよう。その折り合いがつかないがためにストレスを溜め込み、より一層今の仕事への心の負担が増えていく。

 

人はパンのみにて生きるにあらずと言うけれど、何がその人にとって、本当に価値のあるものなのか。お金がないからこそ、常に問われながら生きていました。お金がすべてというパワフルな価値観に打ちのめされないためには、それに負けないだけの価値観を自分の中に培わなければいけない。一元的ではない、ものを見る目を、考える力を身につけなければいけない。芸術も、文学も、映画も、音楽も、そのためにある。先人達が見つけた生きる知恵そのものなのだと思います。

 

お金を「パワフルな価値観」と表現する著者は、弱い人ほどその価値観に飛びついてしまい、手っ取り早く自信をくれるがためにずるずると依存すると説く。お金さえあれば幸せだとか、お金がないから不幸だとか、わかりやすいからそれを結論だと思ってしまう。お金のパワフルさに左右されない人間とならなければ、お金以外の価値観の中で生きられない。価格の高い絵が必ずしも価格の安い絵より素晴らしいとは限らないのと同じことなのだ。

 

仕事=収入と考えるのは普通のことだと思うが、例えば大企業に務めるものが嫌々ながらに日々を過ごすより、中小企業やベンチャーで今の収入ほどではないけれどもやり甲斐に己を満たすことができるならば著者ならばきっと後者を推すだろう。価値観の持ち方、育て方のヒントを得たことで今の仕事への思いが少し変わった。一歩踏み出す時期にあるのかもしれない。