宮澤賢治が東北の子どもたちを書いた童話。
3冊連続して難しい本を読んでいたので、気分転換にと童話が読みたくなった。4月から続いているリモートワーク、今日は久々に外勤。移動中の電車で読む。
宮澤賢治の作品は読み始めた瞬間に頭の中に画像が浮かぶものが多い。時代すらも一気に飛び、知る限りの日本の昔が蘇る。この本に出てくる子どもたちは皆東北弁を話すのだが、標準語を話す人物が二人いる。一人は学校の先生、もう一人は真っ赤な髪をした転校生の三郎。三郎は父親の仕事の都合で北海道からやってきた。
東北弁のイントネーションもそのままに頭の中で再生されているような感覚になるのだが、正直方言がわからない。それはもしかすると三郎寄りの視線で物語を見ることができる状況を意図的に作られたものなのかもしれない。
音、色彩、香りまでもがぐっと押し寄せてくるように感じたのは昨日まで読んでいたちょっと固めの本のせいだろうか。世の中便利になって本を読まない子供が増えているらしいが、日本の未来のためにも想像力を育てる教育の一環として読書の習慣を衰えさせるようなことがなければ良いと思う。もしかすると大人より子供のほうが勉強で忙しかったりするのかもしれないので安易に惰性で見続けてしまうテレビや動画のほうがお手軽だという意見もあるだろう。読書は時間がかかるし、本を買うとなるとお金もかかるし、持ち歩くにも重い。時代に合わないといわれるかもしれないが、繊細な完成を磨くには経験上、読書が数歩上を行っていると思う。
この本を読んで、情景が一つも浮かばないしピンとこないという人は、もしかするとドラマを見ても映画を見ても心の振れ幅が少ないのかもしれないなどと思いつつ車窓の風景とともに堪能した。