執着を作らないために禅宗には「規矩」がある。モノに頼らない生き方について広尾 臨済宗大徳寺香林院の住職が書かれた持たない生活のススメ。
何か悩み事があったり、自己啓発ではないけれどもっと成長しなくてはという焦りが出てきたときはたいてい仏教や哲学、そしてたまにスピリチュアル系の本を手に取ることが多い。確かこの本を購入した時は特に悩みというものはなかったけれど、kindle本がディスカウントされていたか何かで購入したような気がする。出張時の飛行機の中で2/3くらいまで読んでいたまま放置されていたのを思い出し続きを読んだ。
禅は海外でもある程度のサイクルをもってブームになることがある。ヨガが欧米でも健康ブームで一般化し、座禅がマインドフルネスという言葉とともにクリエイティブ層に受け入れられるようになった。座禅は床さえあれば気軽に始められるシンプルなものだけれど、せっかくだからお寺で座禅をしてみたいと検索してみたことがある。
都内では広尾の香林院での朝座禅の情報が数多くヒットした。自宅からもそう遠くはないことからいつか行ってみたいと思いつつ、すでに1年余りが過ぎ去ってしまっている。朝の座禅は7時からとのこと。出勤前に立ち寄る余裕もありそうだ。25分の座禅の後、休憩を挟んでまた25分。ちょうど1時間くらいだそうだし、広尾駅からも徒歩5分ほどで地図を見ると「ああ、あのあたりか」との検討もついた。ここまで調べておきながらなぜ参加していないのか。どうも私は計画を立てるまではワクワクと下準備をするのに、いざ実行となると二の足を踏むところがある。大した理由でもないはずなのになぜこうも怠惰に流されてしまうのだろうか。
とは言え、心を落ち着けたいときには座禅を組むことがある。たった数分でも何かがクリアになる。頭の時もあれば視力の時もあるし、デトックス的な要素のようにも思えるけれど時には頭の中でぐるぐると考えが巡ってしまい失敗に終わることもある。失敗すると「ああ、広尾に行ってみようかな」と思うくせにグズグズ引き延ばしていた。そうしたら、まるでお迎えが来たかのようにあちらから寄ってきて下さった。そう、この本である。読み終わった後にもう一度表紙のページに戻るとタイトルの下に小さく「臨済宗大徳寺香林院」と何度も検索したお名前が書かれていた。
寺社の教えは常々「日本」を体現していると思ってはいたけれど、誰に話すこともなく漠然とみんなそう感じているものだと思っていた。例えば靴を脱いだらきちんと揃えておかなくてはならないという教え。これは日本人なら誰でも一度は言われたであろうし、今やマナーだと思っているところもある。なぜ脱いだ靴を揃えなくてはならないのか。理由まではわかっても、それがどの教えにつながるものかまでは考えたことがなかった。この本によると、それは禅の教えなんだそうだ。
一休さんは昭和の子供たちにはおなじみのアニメで「とんち」をきかせてトラブルを切り抜くお話だった。一休さんは何かを考えるとき軽く座禅を組み、両手の人差し指で頭をくるくるとなでるようにしながらひらめきを得る。
私の一休さんのイメージというとまさにこれ。
ところが著者はアニメではなく10歳の時に読んだ本に感銘を受けたそうである。しかもアニメではなく本!すぐに京都の大徳寺で修業をしたいと考えたが、お寺から「小学校を出てから」と言われてしまい12歳になるのを待って出家されたそうだ。小学生の頃からすでに「悟りは学問ではない」という言葉に惹かれたという話が最初の数ページあたりに登場するが、10歳と言えば今やお受験云々を悩みとする世代。悟りに魅せられるとは恐れ入った。
そもそもこの本を読もうと思った理由は「持たない」というキーワードにあった。家にモノがありすぎる。そろそろ引っ越しの準備もしなくてはならないというのに全く片付かない。買うより捨てるほうが難しい。だからこそ禅の力をお借りしようと思ったわけだ。
「持たない生き方のすすめ」として台所や玄関など生活空間をどう保つかという話がでてくる。お寺での生活は団体生活でもあるし俗世からはシャットアウトされた環境でもあるので一般人の基準からすると極端にストイックで、モノがあるないの物差しでは思いっきり「ない」の端に位置するのではないかと思う。着物も数着、靴も数足では会社勤めの立場では「不衛生な人」と嫌厭されてもおかしくない。ただ、その精神は「足りている」という認識を持つことと「大切につかう、頂く」という基本精神にある。それは私たち一般人でも実行に移せるわけで、私などは野菜の扱い方(残さず頂く)は大いに実践すべき内容であった。
潔く捨てるための三つの心得
一、「所有とはすなわち執着である」と考える
二、「物がある」のが当たり前だと思わない
三、持たない工夫を楽しむ
物 を 一つ 持つ と、 そこ に 執着 が 増え ます。 なぜなら、 物 を「 持ち たい」 と 思う こと 自体 が 執着 なのに、 物 を 持っ て しまう と、 さらに そこ に「 所有」 する こと で 生まれる 執着 も つい て くる から です。 ですから、 物 を 持っ て い ない 人 の ほう が、 当然、 執着 は 減る という こと になり ます。
真理だなと思う。新しくなるたびに携帯の機種を替えたくなるし、服も体にあったものなどは色違いでもう一色と思うってしまうし、旅行に行けば「次いつ買いにこられるかわからないから」と日本で買うよりちょっとお得な化粧品を山のようにカゴに入れてしまう。一つ持っているから執着が生まれるとすれば、なるほど物が少ないほど執着から解き放たれ心が自由になるということだ。
私 の 好き な 言葉 に、「 家 貧しく し て 道 富む」 が あり ます。この「 道」 は「 どう」 と 読み、 生き て いく 道、 生き 様 みたい な もの を さし ます。 これ は、 宋 の 時代 に 中国 で 書か れ た、「 嘉 泰 普 灯 録」 という 禅 の 歴史 について 書か れ て いる 書物 に 出 て くる 言葉 です。 お 金持ち や、 物 を たくさん 持っ て いる 人 は、 物欲 で 目 が くらみ、 道 を 踏み外す こと が 多い もの。 一方、 貧しい 人 は、 余計 な もの を 求め ず、 欲 に おぼれる こと が ない ので、 真実 の 道 を 歩い て いく こと が できる という 意味 です。
無いではなく、足りていることを知ること。