心を育み人をつくる。老舗麩屋 半兵衛麩で代々語り継がれる人の心、商いの心。
両親と京都に行ったときのこと。あれは父親が糖尿病の予備軍と言われて運動を始めた頃だった。食事制限を始めたばかりでなかなか思うように体を扱えずにいた時、気分転換に両親が好きな京都に一緒に出掛けることにした。春の桜が終わった頃、まだ少し肌寒くジャケットを着ていたことを思い出す。もうずいぶん前の話だけれど、断片的ではあるがあそこに行った、ここに行ったと懐かしく思い出す。まだ両親は健在なうちにあの時の思い出とともに、今日はこの本について書いておこうと思う。
半兵衛麩の本店は京都の五条にある。あの時私たちは四条烏丸の日航プリンセスホテルに泊まっていた。四条河原町あたりをぶらぶらしたり、電車やバスを乗り継いでいくつか寺社巡りもした。でも土地勘がないことや父の健康状態のこともあり、観光タクシーのようなもので半日市内をめぐることにした。
運転手さんのお名前はシラトさんと仰ったように記憶している。私が助手席に、両親が後部席に座った。いくつか連れて行って頂いたはずなのにはっきり覚えているのは千本えんま堂で薄茶を頂いたことと、コースの最後に半兵衛麩の本店に連れて行って頂いたこと。シラトさんは「五条は歩いてみると結構遠いから、なかなか行く方がいないんです」と言い、お店に案内して下さった。
日ごろお麩が入った料理を食べることもなかったので、小さいものから大きなものまで色とりどりのお麩があることに驚いた。それから生麩。私の地元ではスーパーにお味噌汁用のものが数種取り扱われているくらいなので、生麩は衝撃的だった。食感と言い、和菓子にまでなっているという素材の可能性に「お麩とはこんなにもすごいものだったのか」と世界が広くなったような気分になった。
あの旅は両親には娘との深い思い出になっているようで、今でも楽しそうに二人で語っているらしい。私はというとそれほど気に掛けることもなく過ごしていたが、コロナで健康を害する方のニュースを見るたびに、両親が健在だから「思い出」より「単なる過去」として触れていられるんだ。これは甘えなんだと気が付いた。70代の両親とあと何回一緒に旅行ができるだろうか。この間仕事で京都に行った時、本店に立ち寄り実家へお麩を送った。また一緒に来たいなと思いながら、「おおきに」の言葉に一人で京都に来ていることに寂しさを感じた。
思うところありAmazonで「陰徳」についての書籍を探していた時、おすすめの本の中にこの本があった。『あんなぁ よおぅききや』という京都弁、しかも著者のお名前に玉置半兵衛とある。すぐにあの半兵衛麩だと思った。買ってしばらく枕元に積まれたままだったが、週末からゆっくり読み始めた。
半兵衛麩の十一代目が先代、先々代から受け継いだ「心」を綴った一冊。後ろの索引によると、著者は昭和9年生まれとのこと。幼いころのお話なので時代で言えば昭和10~30年代のことだと思う。戦時中のエピソードが多い。半兵衛麩は闇市場での麩の販売は一切行わなかったそうだ。商売道具の釜などもすべてお国のためにと提供されたらしい。今の五条の本店の立派な姿を思うと、戦後手作業での商いの復興は本当にご苦労が多かったことと思われる。
禅など仏教の教えが生活の中にしっかりと根付いている、昭和とはそういう時代だったような気がする。「仏様が見ているから」とか「ご先祖様にご挨拶」とか、祖父母が写経をしていたり、お寺さんが法要に来てくださったり。きっと今も日本のどこかで同じような生活を営んでおられる方もたくさんいらっしゃると思うけれど、東京の街中でお線香の香を嗅ぐことなどめったにない。
「あんなぁ よおぅききや」と先代は何か諭すとき口癖のようにこう言っていたらしい。「きく」にはいくつかの意味がある。
聞きや 一言一句ももらさず聞きや
聴きや よく聴いて覚えておきや
利きや 役に立つように気を利かしや
効きや 立派な効果を期待してるよ
京ことばのせいか、どれも大切でどれも人としての心に必要な温かさがあるように感じられる。私たち日本人は立派になるとかよりも、思いやりのある正直な人間になるようにと教えられて育ったように思う。それは仏教や神道の教えがもととなり、生活の中で奢ることなく実直に生きることこそ「徳」であると、「徳」を積むことこそ人生の修行であると学んだように思う。京都にはそれこそ寺社が多いから、自ずと生活に教えがにじむのだろう。
「最近の若いものは」とつい愚痴ってしまう大人がいて、時代を謳歌する若者世代はただただ鬱陶しく思うものだが、コロナで粛々とそれぞれの家族を会社を守らざるを得ないという状況下、身勝手な人の姿があった。もちろんこれこそ和の心と感動を覚えるニュースもあったけれど、マナーを守れない(意図的にも無意識にも)人の行動を目にするたび残念に思わざるを得なかった。日本は変わってしまったのだろうかと悲観的にもなった。そんな人たちに「あんなぁ よおぅききや」と語ることができたら、著者のように素直な心で聞いてくれるのかもしれない。
京都を離れて、山奥のお寺で暮らす集団疎開の生活で、唯一の慰めは家との手紙のやりとりでした。母の手紙は、いつも「元気ですか…」から始まり、いろいろと細かい注意書きや、家の様子、戦争の状況が書かれていました。姉からの手紙は、近所の友達の消息で、いつも母の手紙と一緒に入っていました。父は一度だけ、大きな一枚の紙に毛筆で、箇条書きで書いた簡単なものでした。
一、命を大切に
二、辛抱すること
三、家の心配はするな
四、正しいことはやり通せ
五、皆と仲良く達者に暮らせ
この手紙を、本堂の自分の寝ている横の柱にずっと貼っていました。
『文』P62